エッセー:憲法9条のもとに死す――北朝鮮ならず者集団の核威嚇の下に生きる哀れなる日本

 外に出ると、香しい香りが漂ってくる。いつの間にか、ご近所のキンモクセイがほころんでいる。気がつかないうちに、季節は確実に秋を到来させている。「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず」という唐詩の一節を思い浮かべた。

 しかし、その時にも思う。来年、またこの香しさに浸れるのか、と。

◎東京に核ミサイルが撃ち込まれたら

 僕たちは、今や北朝鮮のならず者集団の核ミサイルの標的下に暮らす日々だ。金正恩の気分次第では、いつでもならず者集団は東京に水爆を撃ち込むことができる。そんな崖っぷちに立たされたような日々なのだ。

 仮に東京に水爆が撃ち込まれたら、100万人以上の死者と数千万の被爆者が出る。関東一円は放射能で汚染され、日本経済の中枢も壊滅するのだから、復興などとうていできないだろう。同時に中京圏と近畿圏にも核攻撃されれば、日本は終わりだ。

◎核攻撃でも反撃できないから金正恩に思い留まらせられない

 それなのに、僕らは憲法9条のもとで、反撃すら封じられている。もしアメリカが核搭載のICBMで脅されていれば、アメリカが自国への反撃のリスクを負ってまで、代わりに北朝鮮ならず者集団を攻撃してくれるのか定かではない。

 狂気の独裁者に核攻撃を思い留まらせるには、攻撃したら自分も殺される、と思わせるしかない。ところが――。

 金正恩にすれば、安心して日本を核攻撃できる。それが、現在なのだ。

 さて憲法である。

 特に第2項を読むと、僕らはただ殺されるのを待つしかないように思えてしまう。

 「第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

02 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」

◎今の日本は「どうぞ攻撃して下さい」と誘っているようなもの

 交戦権が認められないのだから、反撃できない。

 これを読めば、ならず者集団に限らず誰でも日本からの反撃はないと考えて当たり前だ。

 かくてならず者集団は、日本からの反撃のリスクも感じず、一方的に核ミサイルを撃ち込めるというわけだ。

 これは、ならず者たちに「どうぞ攻撃して下さい」と誘っているかのようではないか。

 憲法9条が、アナクロになっていることは明らかなのに、なぜ真剣な改憲の議論が巻き起こらないのか。

 不思議だ、そして絶望感――。

金正恩に「公正と信義」を期待できるのか

 憲法の前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」――北朝鮮ならず者集団の金正恩に、どんな「公正と信義」を期待して、そして信頼できるのだろうか。

 あまりにも国際感覚を欠いたネゴトとしか思えない。

 憲法前文と9条は、僕たちが平和に生きていく上での障害、鉄の鎖、くびき以外の何物でもないではないか。

 読者諸兄姉は、そうはお考えにならないだろうか。

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